^DILETTANT UND KÜNSTLER(就任の辞に代ふ) ある若い藝術家とある若いDILETTANTと ――かくれたる藝術家はゐるかも知れない。人知れず考へてゐる哲人もゐるかも知れない。しかしいま向陵の文壇の表層に立つて活動している人々を見るに、彼らの大部分はすべてこれDILETTANTの群ではないか。自分は一がいに彼らを排斥しやうとは思はない、ただ現在の向陵があまりにDILETTANTに富みすぎてゐる事實を慊らなく思ふのである。もつと本當に「人生」を深く生きてゐる藝術家が出づるにあらずんば、いまに向陵の文壇は根柢の淺い「あそび」の場處に化してしまふであらう。すぐれたるDILETTANTの存在はこれを妨げない。日本のANATOLE FRANCEやPIERRE LOTIの出づることは寧ろ望ましい。ただDILETTANTISMUSの流行が、ともすれば深く「人生」に根ざさない、浮薄なるKUNSTSPIELEREIに堕するのを自分は懼るのである。 ――君の言ふことは正しい。自分たちのやつてゐることは、一つの「あそび」にすぎないであらう。事實自分たちはPARNASSUSの山に面白く遊んでゐればいゝのだ、EPICURASの庭に他愛もなく戯れてゐればいゝのだ、美しい花びら、琥珀色の酒、滑かな言葉、そしてわづかばかりの人生の断片………自分たちのやつてゐることはたしかに品のいゝ「あそび」にちがひない。そして自分はこの「あそび」を熱愛する。しかしそれは何もわがMAÎTREのやうな享楽主義(デイレツタンテイズム)をわが向陵の文壇に主張することではない。眞正の藝術家が出づれば自分はその前によろこんで路をあける者である。然るに君たちの仲間は何もしない。何事もしないからDILETTANTの群れは得たり賢しと飛び出す。その結果EPIGONENのわいわい連が一所になつて歌ひ出すのは知れてゐるではないか。 ――自分たちの仲間は何故に歌はないのであらう。生の哀歌(エレギア)はないのか。この涙と痛苦の人生を深く眞實に生きんとするわが友よ、険しくはるけき荊棘の路を、躓き乍らよろけ乍らも雄々しく歩まんとするわが友よ。君たちの寂寥、君たちの悩みは凝つて、心からの哀歌となつてゐる筈である。それだのに何故それが聞えないのであらう。さうした友は一人もゐないのか………自分たちの仲間の少ないことは、ほんとに寂しい、悲しい―― ――「芽生」の時、萌え出でたばかりの小さな雙葉は殆ど皆同じ形を示してゐるかも知れない。しかし「本質」の相異はいつかその幹に、その枝に、その花に、その實に著しき差別の烙印をつけずには置かないであらう。自分はあのRODINのL'HOMME QUI MARCHEのやうな足どりをもつて強く本道を歩む、まことの藝術家の姿を心から尊敬せずにはゐられない。自分の心願はかゝる姿を一人でも多く向陵に見出すことである。DILETTANTの多いのは、恐らく向陵の文壇の恥辱であらう。 ――自分はすぐれたるDILETTANTの業績を輕蔑しない。眞の藝術家と稱する人々の中に、單なるGOÛTに支配されてあはれなる仕事しかしてゐない者を見出す時、自分は大いなる皮肉を感ずる。君たちの存在は自分たちにとつてたしかに一つの刺戟である………それにしても衰微せるこの向陵の文壇を救ふは我らの任務である。お互ひに眞劍に懸命に各々の爲事を努めて行かうではないか。その結果少しでも向陵の文壇の存在が無意義なものでないといふことが認められたならば、我らにとつてか程の悦びはない。――さう、GOETHEの詩に“DILETTANT UND KÜNSTLER„といふのがあつた。君はよんだか。 ――まだない。一寸「詩集」を見せたまへ―― Blätter nach Natur gestammelt, Sind sie endlich auch gesammelt, Deuten wohl auf Kunst und Leben; Aber ihr,im Künstlerkranze, Jedes Blatt sei das Ganze, Und belohnt ist euer Streben............ 一九一八年二月 文藝部委員 松原久人 岡崎誠一 平岡好道 林達夫 芹澤光治良